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早すぎた幻想作家  フィッツ=ジェイムズ・オブライエンのファンタジー世界
金剛石のレンズ (創元推理文庫) 不思議屋/ダイヤモンドのレンズ (光文社古典新訳文庫)
 フィッツ=ジェイムズ・オブライエン(1828-1862)は、19世紀半ばにアメリカで活躍し夭折した伝説的な作家です。残された作品数は少ないのですが、今読んでもみずみずしさにあふれた幻想小説・ファンタジーが多く含まれています。
 日本では、「ダイヤモンドのレンズ」「あれは何だったのか?」といった作品がアンソロジーに収録され、一部のファンには知られていましたが、本格的にオブライエンの名が認知されたのは、傑作集『失われた部屋』(大瀧啓裕編訳 サンリオSF文庫 1979年)が出版されてからでしょうか。
 この『失われた部屋』は増補され、2008年に『金剛石のレンズ』(大瀧啓裕編訳 創元推理文庫)として出版されました。14篇を収録するこの傑作集は、日本におけるオブライエン作品集の決定版といえるのですが、2018年現在、品切れ状態になっています。
 収録作品は『金剛石のレンズ』よりも少ないのですが、幸い、2014年に南條竹則氏の訳になる『不思議屋/ダイヤモンドのレンズ』(光文社古典新訳文庫)が刊行され、こちらはまだ入手可能です。
 今回は『金剛石のレンズ』『不思議屋/ダイヤモンドのレンズ』、この2冊から、オブライエンの邦訳作品について、見ていきたいと思います。

 「ダイヤモンドのレンズ」(南條竹則訳『不思議屋/ダイヤモンドのレンズ』光文社古典新訳文庫 収録)は、幼い頃から顕微鏡による微細の世界の魅力に囚われていた男が、ダイヤモンドのレンズを通して極小の別世界を発見し、そこに住む女性のような生物に恋をする…という物語。
 水滴の原子の中に肉眼では見えない極小の世界があるという、SFテーマの先駆的な作品です。別世界の描写や、顕微鏡に対する男の執着を描く部分も興味深いのですが、読みどころは極小の美女に対する男の片思いを描く部分でしょうか。彼女への興味を断ち切ろうと現実世界の美女を見ても「究極の美」を見てしまった男は何も感じないのです。しかもその恋は一方的であり、相手には自分の存在自体が認識できない…という、悲恋に終わるしかない物語構造も見事ですね。

 「チューリップの鉢」(南條竹則訳『不思議屋/ダイヤモンドのレンズ』光文社古典新訳文庫 収録)はゴシック要素の濃いゴーストストーリー。
 語り手ハリーは、親友ジャスパーを誘い、田舎のオランダ風大邸宅で一夏を過ごすことになります。その邸は、亡き資産家ヴァン・クーレンが建てた邸でした。彼は嫉妬のあまり、若妻の不貞を疑い、息子につらく当たっていました。
 妻は心労で死に、ヴァン・クーレン自身も亡くなります。しかし膨大にあったはずの財産は見当たりませんでした。ハリーは邸でヴァン・クーレンと思しき幽霊と出会いますが、彼はチューリップの鉢を持っていました。チューリップの鉢はいったい何を意味しているのか? ハリーは謎を解こうとしますが…。
 ゴシック要素たっぷりの物語ですが、一番目を惹くのは、ヴァン・クーレンの人物像で、病的な嫉妬心を持つ人物として描かれます。ゆがんだ心情から、自らの息子をわざと無頼な生活をするように仕向けていくのです。
 短い中にもいろいろな要素がつまっていて、密度が濃い作品です。

 「あれは何だったのか?」(南條竹則訳『不思議屋/ダイヤモンドのレンズ』光文社古典新訳文庫 収録)は、怪奇小説のマスターピース的作品。
 語り手ハリーは、幽霊が出るという噂のある邸に、元の下宿の女将や仲間たちとともに引っ越してきます。ある夜、ハリーが眠ろうとしていると、暗闇の中、何者かがすごい力で襲ってきます。格闘の末、しばりあげた侵入者の姿を見ようと明かりを点けてみると、そこには何も見えませんでした。なんと「透明な」身体を持つ生物のようなのです。友人のハモンドとともに、透明な怪物の正体を探ろうとするハリーでしたが…。
 透明な怪物を扱う作品ですが、それを超自然的な現象だと割り切ってしまうのではなく、「科学的」に探求しようとする姿勢の見られる作品です。
 江戸川乱歩も「怪談入門」の中で「透明怪談」に属する作品として紹介しています。ウェルズ「透明人間」やモーパッサン「オルラ」よりも着想の先行する作品で、SF小説の先駆的な作品でもありますね。

 「なくした部屋」(南條竹則訳『不思議屋/ダイヤモンドのレンズ』光文社古典新訳文庫 収録)は、なんとも奇妙な味を持つ幻想小説です。孤独ながらも、思い出の品や家具に囲まれた部屋で静かに暮らす「私」は、ある日散歩に出た先で妙な小男に出会います。彼が言うには「私」が住む家には「人食い」が住んでいるというのです。
 不安にかられた「私」が部屋に戻ると、そこには数人の風変わりな男女が宴を開いていました。自分の部屋から出て行けと言う「私」に対し、彼らはここは「私」の部屋ではないと言い張ります。部屋の中を見回した「私」は、自分の愛する品や家具が見当たらないことに気付きます。
 しかし部屋にあるそれぞれの品は、どこか自分の持ち物を思わせる雰囲気をまとっているのです。ここは本当に「私」の部屋ではないのだろうか…?
 奇怪な住人たちに乗っ取られた部屋を描く、不気味な幻想小説です。作品前半は、語り手の部屋に対する愛着や、品々に対する思い出がしみじみと語られます。
 それだけに、後半「乗っ取られた」部屋に対する語り手の困惑が際立つ感じですね。部屋に現れた住人たちの正体は全く明かされません。どうやら別の次元から来ているような雰囲気で、単なる幽霊や怪物が登場するより、数段不気味です。欧米怪奇小説の中でも「怖さ」ではかなりのレベルに来る作品です。

 「墓を愛した少年」(南條竹則訳『不思議屋/ダイヤモンドのレンズ』光文社古典新訳文庫 収録)は、哀感の漂う掌編です。墓地の近くに住む幼い少年は、諍いの多い両親から逃れてよく墓地を訪れていました。荒れ果てた墓地の中にあって、一つだけ少年の目を惹く墓がありました。
 奇妙な紋の入った小さな墓を愛するようになった少年は、毎日のように墓を訪れ、いとおしんでいました。そんなある日、五人の男が現れ、墓に葬られているのはさる国の貴人であり、その遺骸を故国に移すと話しますが…。
 超自然的な現象は起こらないのですが、その手触りは、やはり怪奇幻想小説。少年の純粋さと結末の余韻が素晴らしい作品です。

 「不思議屋」(南條竹則訳『不思議屋/ダイヤモンドのレンズ』光文社古典新訳文庫 収録)は、キリスト教徒に復讐を誓うジプシーと、それを防ごうとする若い恋人たちを描くファンタジーです。
 ゴロシュ通りに住むヒッペ氏の店は「不思議屋」と呼ばれていました。小さな人形がたくさんあるものの、氏の本当の商売は何なのかは誰も知りません。ヒッペ氏は、殺された息子のためにキリスト教徒を憎んでいました。仲間たちとともに彼は恐ろしい計画を立てます。玩具の木の人形に邪悪な魂を吹き込み、それを子供たちに配って殺戮しようというのです。
 一方、ヒッペ氏の娘ゾネーラは飼い猿のファービロウとともに部屋に閉じ込められていました。ゾネーラに恋する、背中にこぶを持つ青年ソロンは、彼女の元を訪れますが、ヒッペ氏に気付かれ監禁されてしまいます…。
 おとぎ話的雰囲気の強いファンタジー小説です。魔法を使うジプシーたち、呪いの人形、さらわれた姫君、せむしの青年…。物語内に登場する要素がことごとく魅力的。加えて、悪役であるヒッペ氏と仲間たちの計画とその経過が、事細かに描かれ、その部分にも非常に生彩があります。
 E・T・A・ホフマンの影響が濃厚な作品です。特に、ヒッペ氏の仲間である、悪魔の義眼を持つ小男ケルプロンヌは、ホフマン風の登場人物といっていいかと思います。

 「手品師ピョウ・ルーが持っているドラゴンの牙」(南條竹則訳『不思議屋/ダイヤモンドのレンズ』光文社古典新訳文庫 収録)は、中華風ファンタジー。青島に現れた手品師ピョウ・ルーはふとしたことから手に入れたドラゴンの牙を使って、人々に魔術を見せていました。彼の魔術に感心した役人ウェイ・チャンツは、ピョウ・ルーを自宅に呼びますが…。
 実際の中国とはあまり関係のない、幻想的な中国イメージのあふれる作品なのですが、徹頭徹尾楽しい作品です。主人公が「手品師」であることもありますが、最後までイリュージョンの嵐で、読者はピョウ・ルーの魔術に翻弄されるのみ…という、非常にファンタスティックな作品ですね。

 「ハンフリー公の晩餐」(南條竹則訳『不思議屋/ダイヤモンドのレンズ』光文社古典新訳文庫 収録)は、O・ヘンリー風の人情小説です。
 食べるものにも困窮している若夫婦ディックとアグネス。貧乏の中にあってもユーモアを忘れない彼らは、豪華な食事をしている情景を空想します。ディックはふと、親友のハリーにもらった本を売ることを思いつきますが…。
 他愛ない作品と言えば言えるのですが、読んでいて非常に心地よい作品です。「普通小説」ではありますが、空腹を空想でまぎらわそう…というその考え方には豊かな「ファンタジー」が感じられますね。

 「世界を見る」(大瀧啓裕訳『金剛石のレンズ』創元推理文庫 収録)は、寓意の強いファンタジー小説。詩への情熱を持ちながらも才能の限界を感じる青年チプリアーノは、魔術師と噂されるセゲリウスに相談を持ちかけます。
悩みは解決できるという言葉に喜ぶ青年でしたが、それには条件がありました。死ぬまで、あらゆるものを見て、理解してしまう…というのです。やがて美しい詩を生み出すようになったチプリアーノでしたが、「全てを理解する」とは、あらゆるものの「醜さ」を見てしまうということでもありました…。
 人間は「完全な能力」など求めるべきではない…という寓意物語。人間の幸福について考えさせられる作品です。

 「パールの母」(大瀧啓裕訳『金剛石のレンズ』創元推理文庫 収録)は、人間の二面性について描かれた作品。美しく魅力にあふれた女性ミニーと結婚した「わたし」は、芝居を見るためにニューヨークに出かけます。芝居を見た夜、ミニーは突然ナイフで「わたし」に襲いかかります。妻は精神の病にかかっているのではないかと「わたし」は疑いますが…。
 妻が豹変した理由は何なのか? 現実的な解釈が示されるものの、割り切れない思いが残る作品です。

 「絶対の秘密」(大瀧啓裕訳『金剛石のレンズ』創元推理文庫 収録)は、いろいろな要素が詰め込まれたサスペンス作品。孤児となった青年は、犬猿の仲にある二人の伯父の間で育ちます。片方の伯父の娘と恋仲になりながらも、もう一人の資産家の伯父の財産のために、彼女を捨てようとした彼は、結局どちらをも失ってしまいます。
 ひょんなことから死んだ人間と入れかわった青年は、謎の組織に追われることになりますが…。
 身元を偽った青年は、謎の組織に追われ続けます。追われる理由も示されず、事件の全容がまったくわからないままに終わってしまうという、まるでサスペンス小説の発端だけを読まされているような、何とも奇妙な物語。謎が謎のままに終わる「リドル・ストーリー」の変種的作品として読むこともできます。

 「鐘つきジューバル」(大瀧啓裕訳『金剛石のレンズ』創元推理文庫 収録)は、美しい娘に恋をした男が、自分を裏切った娘に対して復讐するという物語。結末のシーンが印象的で、非常に絵になる作品ですね。

 「ボヘミアン」(大瀧啓裕訳『金剛石のレンズ』創元推理文庫 収録)は、富に執着する青年が、神秘的な能力を持つ男に出会い、その能力を使って財宝を手に入れようとする物語。男は、富は手に入るが幸福は手に入らないと予言します…。「メスメリズム」的な題材を扱った作品です。

 「いかにして重力を克服したか」(大瀧啓裕訳『金剛石のレンズ』創元推理文庫 収録)は、ある装置により重力を克服した男の物語。SFの先駆的な作品ですが、オチがちょっと脱力系ではあります。

 「手から口へ」(大瀧啓裕訳『金剛石のレンズ』創元推理文庫 収録)は、オブライエン最大の怪作といっていい作品です。
 ある夜、下宿から閉め出された「わたし」は、ゴロプシャス伯爵と名乗る男に出会い、一夜の宿を貸してもらうことになります。しかし連れていかれた先は、壁に目や手の生えた奇怪なホテルでした。
 監禁されている隣の部屋の美女と話すことに成功した「わたし」は、ホテルの「手」や「目」は、伯爵に強制されて彼女が作ったものだということを知ります。「わたし」は、彼女を救い出そうと考えますが、生命を持った「手」や「目」は彼らを監視して出そうとしません…。
 壁一面に生えた手や目という異様なイメージとともに、なんともシュールなストーリーが展開する怪作です。正直、結末には問題があるのですが、それまでの展開があまりにインパクト大なので、最後がどうでもよくなってしまうほど。突拍子もない作品ながら、非常に魅力的な作品です。

 オブライエンは、主に1850~1860年代に作品を発表していますが、時代背景を考えると、彼の作品には非常に先駆的・独創的なアイディアが見られます。「ダイヤモンドのレンズ」における極小世界であるとか、「あれは何だったのか?」における透明な怪物などが代表例ですね。
 また「チューリップの鉢」における幽霊現象や、「あれは何だったのか?」における透明な怪物など、怪異現象に対する主人公の態度は非常に「科学的」です。題材的には怪奇小説といっていいのですが、実際に読むと怪異現象に対する「恐怖」よりも「探究心」の方が勝っている感があり、その意味でSFの萌芽が見えるといってもいいかもしれません。
 超自然現象に対して懐疑的な態度を見せる作品もあるかと思えば、「手品師ピョウ・ルーが持っているドラゴンの牙」「不思議屋」のように、魔法をそのまま魔法として純粋に描く作品もあり、その点オブライエンの筆は非常に融通無碍です。
 また、「手から口へ」に至っては、その魔法の描写も極端であり、その世界観はシュルレアリスムの域に達しています。

 「あれは何だったのか?」の作中では、語り手と登場人物との間に「恐怖」に関する談義がなされるのですが、これがなかなか興味深いです。「恐怖の王」があるに違いないとするその内容は、ラヴクラフトの言う「未知のものへの恐怖」と通じるところがありますね。
 また談義の中で、C・B・ブラウン『ウィーランド』、ブルワー=リットン『ザノーニ』、またホフマンの名前などの言及があり、作者オブライエンがこの手の幻想的な作品をよく読んでいたであろうことも窺えます。

 オブライエンはポオとビアスを繋ぐ作家と言われます。ただ寡作だったこともあり、日本においてはポオやビアスほどの知名度は得ていません。しかし上記のように、彼の作品には、後のジャンル小説につながるような、様々な要素が含まれています。
 また、現在読んでも十分に面白く、その意味で、今も「生きている」作家といっていいのではないでしょうか。

テーマ:海外小説・翻訳本 - ジャンル:小説・文学

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怪奇幻想小説の読書会「怪奇幻想読書倶楽部」主宰。
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