時代は1984年、離婚したばかりの女性レスリー・モーニングは、父方の祖母について、母親からショッキングな事実を聞かされます。祖母エリアンダー・モーニングは、1913年、ウィーンのカフェで、見ず知らずの青年画家を射殺したというのです。 レスリーは、急逝した父親の遺品の中から「タイム・ライフ版「第二次世界大戦史」」という本を見つけます。その中には「第二次世界大戦」について、詳細な記録と写真が掲載されていました。しかし彼女の知る限り、「第二次世界大戦」などという戦争は起こったことがないのです。 その本のあまりの完成度に、それがフィクションだとは思えなくなったレスリーは、映画監督や撮影技師、歴史家、退役軍人ら、専門家を集めて本の内容を鑑定してもらいます。結果は本物ではありえないが、本物としか思えない…というもの。中でも「ナチス・ドイツ」についての記述は、集まった人間に衝撃を与えていました。 祖母について調べていたレスリーは、過去の新聞記事で祖母エリアンダーの事件の詳細を知ります。祖母が射殺した画家の名はアドルフ・ヒトラー、「第二次世界大戦史」の中で、ナチスの指導者として記されていた人物でした…。
ジェリー・ユルスマン『エリアンダー・Mの犯罪』(小尾芙佐訳 文春文庫)は、アドルフ・ヒトラーが殺されたため、ナチス・ドイツは存在せず、第二次世界大戦も起こらなかった世界を舞台にした作品です。 調べていくうちに、祖母エリアンダーがヒトラーを殺したために、世界の歴史が変わったことがわかってきます。彼女はどうやってヒトラーの存在を知ったのか? どんな目的があったのか? 世界改変の謎、エリアンダーの生涯の謎が物語を引っ張っていきます。
祖母エリアンダーの人生を描くパートと、祖母の生涯と世界の変化について調べていくレスリーのパートが併行して描かれていきます。 ミステリー的な興味はあるものの、動きの少ないレスリーのパートに比べて、躍動感あふれるエリアンダーのパートの方が読み応えがありますね。 女性の社会進出がまだ少なかった時代を舞台に、知恵と行動力で未来を切り開こうとするエリアンダーのキャラクターは印象に残ります。何より、彼女の行動原理は「大切な人を守るため」であり、夫や息子、友人たちのために様々な困難に立ち向かいます。 そして、彼女がヒトラーを暗殺しようと考えるまでの決意の過程とその結果も、また強い印象を残すのです。
この作品の舞台はいわゆる「パラレルワールド」であるわけですが、世界の変化の前後で変わった箇所がところどころで提示され、そのあたりがどうなっているのか読むのも楽しみの一つです。 ナチスの大物たちが、普通の市民だったり、成功した商人になっていたり、逆に有名な指導者たちが、ろくに活躍もせずに引退していたりします。 過去のエリアンダーのパートでは、H・G・ウェルズが重要な役目で登場するのも楽しいところですね。
あまり動きのなかった現代のレスリーのパートも、後半になると、きなくさい展開になっていきます。「第二次世界大戦史」から影響を受けたドイツの軍人たちが、行動を起こし始めるのです。 変化後の世界では、ドイツが世界で最大の国、唯一の核保有国になっています。これを利用しようとする軍人ザイドリッツを止めようと、レスリーとザイドリッツの甥パウルは秘密の計画を立てますが…。
設定の細かい部分で、曖昧なところもなくはないのですが、読んでいる間は全く気になりません。複雑かつ繊細なストーリー、厚みのある人物描写、香気あふれる雰囲気と、傑作といっていい作品ではないでしょうか。
テーマ:海外小説・翻訳本 - ジャンル:小説・文学
|