英国人の魂  ウィリアム・モール『ハマースミスのうじ虫』
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 今回はウィリアム・モール『ハマースミスのうじ虫』(井上勇訳 東京創元社 世界推理小説全集23収録)を紹介しましょう。ミステリファンなら、瀬戸川猛資がエッセイ集『夜明けの睡魔』(創元ライブラリ)で、この作品を褒めていたのを記憶している方もいるかも。瀬戸川はこの作品に対して「誇り高さ」「凛々しい男の子っぽさ」という表現をしていましたが、確かにそうした評も肯けるような作品です。
 ぶどう酒商会の重役をつとめるキャソン・デューカーは、素人探偵を趣味としていました。人間観察家をもって任じるキャソンは、行きつけのクラブ「ケイン」で銀行の重役ヘンリー・ロッキヤーが酒を浴びるほど飲んでいる姿に興味をひかれます。その乱れぶりは、ふだんの謹厳なロッキヤーからは想像もつかない姿です。酔った勢いを利用したキャソンは、ロッキヤーの不機嫌の理由を聞き出すことに成功します。
 それはロッキヤーが恐喝されたという事実でした。同性愛者だという根も葉もない噂を広めるのをやめさせるために、大金を払ったというのです。なぜ事実無根の脅しに屈するのかというキャソンの問いに、ロッキヤーは答えます。貧民街の少年を対象にした帆走クラブ設立を目前に控えている今、もし噂が広がれば、その計画がおじゃんになってしまうからだ、と。
 それよりもキャソンが驚いたのは、バゴットと名乗る恐喝者の用意周到さでした。小柄で眼鏡をかけたその平凡な容姿は、あまりに平凡なために記憶にも残らないのです。そして彼の犯罪理論は明晰極まりないものでした。

 犯罪者の多くは、同じことを繰り返さなければ、犯罪現場へふたたび姿を見せたりしなければ、発見されないものだ、という見解を持っている。自分はけっして同じ人間を二度も恐喝したりはしないというんだ。

 そして弱みを握られた被害者は、裁判で証言をすることには二の足を踏みます。ロッキヤーも例外ではありませんでした。調査の結果、バゴットは以前にも恐喝を働いており、被害者のグリーンハーフという男は自殺していたことが明らかになります。再び被害が繰り返されるのを防ごうと、キャソンは調査を開始します。
 キャソンは、ロッキヤーの話から、バゴットがローマ時代の彫刻に興味を持っているということを知り、ある計画を立てます。友人の骨董商ウィリントンの協力により、バゴットが目をつけそうな彫刻を競売にかけ、おびき寄せようというのです。計画は成功し、バゴットらしき男を特定したキャソンは、その男の後をつけ住まいをつきとめます。さらに、変装して近所に作家として下宿したキャソンは、バゴットの日常を監視し、現行犯で逮捕しようとしますが、バゴットはなかなか隙を見せません…。
 一度脅迫した相手には二度と接触しないという頭脳的な脅迫者バゴット。被害者は噂が広まるのを恐れ、証言しようとしません。この憎むべき相手に対して立ち上がったキャソンの調査が綿密に描かれます。
 探偵役のキャソンが、人間の性質に興味を持つ思索家であるところがユニークです。最初は狡猾でつけいるスキの全くないように思えたバゴットが、キャソンの捜査によって、徐々に人間性を露わにしてゆきます。物理的な捜査に加え、キャソンによって心理的にもバゴットは解剖されてゆくのです。このあたりの心理的なサスペンスはなかなかのもの。
 この作品の視点は、基本的にキャソンを中心に進められるのですが、中盤から時折バゴットの内面描写がはさまれます。この部分は一見、作品中で浮いているような感じを受けるのですが、この部分の描写によって、バゴットの卑小さ、醜い虚栄心などが、読者に印象づけられる仕掛けになっています。そしてこれが結末の心理的な伏線にもなっているのです。
 ローマ美術に興味を持つなど、それなりの美的なセンスを持つバゴットは、しかしその教養に似合わぬ世俗的欲望の持ち主です。人から認められたい、ちやほやされたいというその一心でバゴットは犯行を重ねます。その人間的なちっぽけさをキャソンは完膚無きまでに暴いてしまいます。探偵と犯人の闘争といっても、バゴットは自分が監視されているとは知りません。キャソンの一方的な監視や策略によってバゴットは追いつめられていくのです。いくら悪人とはいえ、そのあまりの一方的な攻撃に、読者によっては、バゴットに同情を覚えるのではないかと思うほどです。その意味で、この作品でのキャソンの位置は悪人を裁く「神」にも比せられるでしょう。しかし作者は、そのキャソンの思い上がりを打ち砕くような結末を用意しています。
 結末でキャソンは、虚栄心が高いバゴットの性質を利用して、彼を追いつめます。そしてその過程で、キャソン自身の人間性を試されることにもなるのです。瀬戸川猛資が評した「誇り高さ」が明らかになる最後の三行には、きっと感銘を受けるはず。
 プロットに特別ひねりがあるわけでもなく、展開も実に地味ですが、イギリス小説の、地に足のついた良さが感じられる佳作といえるでしょう。
この記事に対するコメント

「ハマースミスのうじ虫」をお持ちとはうらやましい…。私も瀬戸川猛資氏の「夜明けの睡魔」をでの紹介で、読みたくてたまらなくなった一冊です。タッチの差でオークションに負けたこともあります(笑)。
続編の「さよならの値打ちもない」と共に、文庫化してくれないかなと熱望している作品です。
【2006/03/24 23:35】 URL | げし #ItxbjV56 [ 編集]

ハマースミス
この作品、僕も手に入れるのにずいぶんかかりました。「夜明けの睡魔」で読みたくなった作品は数あれど、この作品が筆頭ですね。思っていたのとは、大部トーンが違ってたのですが、これはこれで面白いです。
「さよならの値打ちもない」は僕も持ってないので、文庫化してほしいですね。創元は、以前「人魚とビスケット」とか「夜鳥」とか、かなりマイナーなものを文庫化していたので、この調子ならもしかしてハマースミスも…と思ったのですが、後が続いてませんねえ。
【2006/03/25 08:15】 URL | kazuou #- [ 編集]


東京創元社から8月に新訳で文庫化されることが決まったようです。
http://e6.wingmailer.com/wingmailer/backnumber.cgi?id=E434
「さよならの値打ちもない」も期待してしまいますね。
【2006/06/18 21:09】 URL | げし #ItxbjV56 [ 編集]

驚きですね
とうとう『ハマースミス』復刊ですか。というか新訳なんですね。
でも今読んで、一般の読書家の支持を得られるかどうかは、ちょっと疑問のような気もします。何しろ地味な話ですから。
とりあえず『さよならの値打ちもない』も期待しております。
【2006/06/18 22:13】 URL | kazuou #- [ 編集]

感情移入
本日文庫新訳で読了しました。こちらで拝見して、その題名がとても気になっていたので。
で感想は…後半、しっかりバゴットに感情移入していました(笑)
卑小な虚栄心を犯罪の動機に据えて顕微鏡で観察するように描写していくなんてまったく意地悪だなあとぼやきつつ一気に読了。
文庫解説(川出正樹)に「奇想の系譜」(by瀬戸川猛資)に連なる一冊とありましたが、同感です。
【2006/09/10 23:08】 URL | 迷跡 #- [ 編集]

犯人小説
この作品はやはり、探偵が主人公というよりは、犯人が主人公の小説ですよね。バゴットはどうも「卑小」というほどの人間ではないと思ってしまうのは、こちらの感情移入のせいなんでしょうか。ともかく探偵が意地悪すぎですよね。まあ結末で、それもある程度相殺するような仕掛けを用意してあるので、トントンというところでしょうか。
【2006/09/11 05:37】 URL | kazuou #- [ 編集]

「さよならの値打ちもない」
ハマースミスの後日談(?)と知って図書館で読みました。

キャソンの「ハマースミスのうじ虫事件」後の変貌(?)が印象的でした。
【2010/06/18 10:49】 URL | fontanka #- [ 編集]

>fontankaさん
『ハマースミス…』が復刊されたとき、もしかして続編も…と期待してたんですが、いまだに出ないようで、残念です。
【2010/06/20 09:01】 URL | kazuou #- [ 編集]


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探偵怖い

『ハマースミスのうじ虫』(ウィリアム・モール/霜島義明訳2006創元推理文庫)読了。東京創元社のの一冊として1959年に同題名で刊行されているが、今回文庫新訳である。題名にぐっと惹かれた。最初の数ページを読んでぐぐっと惹かれた。半ばまで読んでこれは傑作... 迷跡日録【2006/09/17 20:40】

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Author:kazuou
男性。本好き。短編好き。異色作家好き。怪奇小説好き。
怪奇幻想小説の読書会「怪奇幻想読書倶楽部」主宰。
主に翻訳小説を紹介していますが、たまに映像作品をとりあげることもあります。
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