物語を続けよう  トマス・ウォートン『サラマンダー -無限の書-』
4152085002サラマンダー―無限の書
トマス ウォートン Thomas Wharton 宇佐川 晶子
早川書房 2003-08

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 読み続けても終わらない、無限に続く本。それは、本好きの人間が夢見る究極の願望です。カナダの作家トマス・ウォートンの作品『サラマンダー -無限の書-』(宇佐川晶子訳 早川書房)は、真っ向からそのテーマを扱った力作。
 舞台は18世紀、オスマン・トルコとの戦争で息子を、出産で妻を失った、スロヴァキアの貴族オストロフ伯爵は、領地の城に閉じこもってしまいます。パズルや暗号など、謎かけの熱狂的な愛好者である伯爵は、自らの城を機械仕掛けに改造する作業に没頭します。
 城内のあらゆる部屋や家具は、機会仕掛けにより、次々とその場所を変えるようになります。そしてその中核にあるのは図書館でした。

 客が芳香を放つ風呂を楽しんだり、淫らな気分で召使いを追いかけたりしていると、目に見えぬギアの震音とともに、岩のように堅牢だったはずの仕切がうしろへ滑走し、本棚やら読書机やらががたごととそばを通過し、しばしばそのあとを伯爵当人が時計を見ながら、家具の進み具合の正確さとタイミング以外いっさい眼中にない様子で歩いていくといったありさまだった。

 城内の本の管理をするのは、伯爵の娘イレーナ。今や、たった一人の家族となったイレーナを、伯爵は溺愛していました。婚期を迎えても、まったく結婚する気のないイレーナでしたが、伯爵は、娘が自分の助手としても有能であることを発見して以来、城内の人間の数を減らし、ひたすら機械仕掛けを増やしていました。
 ある日、城にとどいた本の仕掛けに感心した伯爵は、ロンドンから、それを作った印刷職人フラッドを呼び寄せます。そして、フラッドにつきつけられた課題とは驚くべきもの。なんと、無限につづく本を作れというのです!
 フラッドは、難題に対し試行錯誤を続けますが、やがてイレーナとの間に恋が芽生えます。しかし、二人の仲を知った伯爵は、激怒し、フラッドを地下牢に幽閉してしまうのです。
 そして十数年後、フラッドの独房を一人の少女が訪れます。

 「こんにちは、シニョール・フラッド」彼女は英語でいった。「わたしの名前はパイカ。あなたの娘です」

 フラッドが幽閉から解放された理由とは? 彼女は本当にフラッドの娘なのでしょうか? やがてフラッドは、パイカとともに「無限の書」を求めて旅に出ることになるのです。そしてイレーナの行方は…?
 書物をめぐる幻想小説、なのですが、作品中にあらわれるガジェットがことごとく魅力的。無限に続く本、機械仕掛けの城、動く書棚、人工庭園、驚異の小部屋、自動人形、女海賊。何より全体を通して、書物や本に対する愛情が感じられるところが、本好きにはこたえられないところです。
 前半のオストロフ伯爵の城での「無限の書」作りのくだりは、もう素晴らしいの一言につきます。動く図書館とも言うべき城のからくりは、どれも魅力的です。そして機械仕掛けの城で繰り広げられる、フラッドとイレーナのロマンスもなかなか。
 ただ、幽閉されたフラッドが、娘とともに旅に出る後半になると、どうも作品のトーンが異なってくるのに気がつきます。海洋冒険小説的な色彩が濃くなってくるのです。フラッド父娘はつぎつぎと仲間を加え、世界中の様々な都市を訪れることになります。ヴェニス、アレキサンドリア、スリランカ、マダガスカル、広東など、その旅はエキゾチックかつファンタスティック。ストーリーの合間に、本編とは独立したエピソードもはさまれ、これはこれで飽きさせません。
 ただ、上にも書いたように、「無限の書」作りに対する焦点がぼけてくるきらいがあるのは否めません。目的自体がなくなったわけではないものの、旅の途上の異国の風物や冒険の方が、前面に出てくる感じなのです。その点、作品冒頭のトーンで、話が進むと思っていると、ちょっとはぐらかされます。端的に言うと、前半と後半とで、どうも違う話のようなのです。
 主人公だと思っていたフラッドが、あまり積極的に活動しないのも、ちょっと気になります。オストロフ伯爵に幽閉されてからは、ほとんどいいところなし。対して、その後は娘のパイカが主に活躍することになります。しかしそれでも「無限の書」作りが明確に達成されるわけでもなく、結末もどうも曖昧なのがちょっと弱い。
 そして、致命的に弱いのは、やはり作中での「無限の書」の扱いでしょう。「無限の書」というからには、それなりの魅力を感じさせなくては駄目だと思うのですが、この作品では、その内容も明確に示されず、曖昧なまま終わってしまいます。前半は、内容というよりもむしろ物理的な仕掛けで「無限」を作れないかという試み、後半になってからは、象徴的な「無限」として、話をにごしてしまうのです。まあ強いて解釈するなら、後半の冒険行そのものが、すなわち終わらない旅であり、「無限の書」である…、ともとれなくはないのですが。
 さらに言うなら、伯爵やフラッドが、なぜ「無限の書」に取り憑かれるようになったのかという点にも、あまり説得力が感じられません。この「無限の書」の魅力を読者に感じさせることができたなら、本作は、もっと素晴らしい作品になったと考えると、ちょっと残念です。
 ちなみに、読み終えた後、思い浮かべたのは澁澤龍彦の『高丘親王航海記』(文春文庫)でした。後半の旅のパートで訪れる、アジアやアフリカの都市の雰囲気など、実にそっくりです。ペダントリーも作中にばらまかれており、澁澤龍彦が好きな方なら楽しめるのではないでしょうか。

テーマ:海外小説・翻訳本 - ジャンル:小説・文学

この記事に対するコメント
ネバーエンディング・ストーリィ!
終わることのない物語と機械仕掛けとの組み合わせは新機軸ですね。それだけに寓意としての「無限の書」を出したりするのはkazuouさんのご指摘のとおりもったいない話だと思います。
有名なSF短編に、無限時間、チンパンジーにタイプライターをたたかせればすべての著作物ができあがるというものがありましたね。初めて読んだときめくるめく思いがしました。
私のイメージする「無限の書」は、コンピュータ内臓の無限物語機械。人類が滅びた後の地球のあちこちでいつまでも物語を語り続ける機械たち‥でも、これも結局有限なんですね。いつか地球とともに消えてしまう。
とにかく想像力を刺激するテーマではあります。

【2006/08/19 20:21】 URL | 迷跡 #- [ 編集]

有限と無限
SF作品には、想像を絶する時間を扱った作品というのが、わりとよくあると思うのですが、やはり厳密には有限です。「無限」をどのように表現するのか、というのは未だ解決されざる難問ですね。
小説作品で「無限の書」をうまく表現できていると思うのは、エンリケ・アンデルソン=インベル『魔法の書』、アルフレッド・ノイズ『深夜特急』ぐらいでしょうか。
チンパンジーにタイプライターを叩かせる…というのはラファティの『寿限無、寿限無』でしたっけ? あのスケールの大きさには参りました。
「人類が滅びた後の地球のあちこちでいつまでも物語を語り続ける機械」! なんかブラッドベリ風の詩的なイメージが浮かんでくるようです。
【2006/08/19 21:40】 URL | kazuou #- [ 編集]


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