異国の旅その他の旅  埋もれた短編発掘その20
 よその国の人と意志の疎通をすることができる…、すなわち外国語が話せるということは、疑いを入れず、いいことです。この作品の主人公もそれを望んでいました。しかし思わぬ形で、この願いはかなえられることになるのです…。
 フレデリック・ダール『バベル』(高野優訳 早川書房 ミステリマガジン1985年11月号所収)は、ユニークなシチュエーションのショート・ストーリー。
 40歳になるオランダ人のエステル・モープスは、この歳になってようやく一人暮らしを楽しめるようになっていました。夫との死別後、同僚の愛人になった彼女は、妻子を捨てきれない男に別れを切り出したのち、いろいろな国をひとり旅行して回るようになっていたのです。
 今回の旅行先はフランス。エステルは、母国語のオランダ語のほかに、英語とドイツ語も流暢に話せるのですが、フランス語は話せません。おしゃべり好きなエステルは、フランス人と話せないのを残念に思っていました。

 しかたなくエステルは、オランダのように小さな国はいやおうなくまわりの国の言葉を話しているけど、でもそのおかげでいろいろな文化を自分のものにできるのだし、フランスみたいにいくら五千万の人口があるといってもひとりよがりに国境線の内側に閉じこもってしまうよりは、そのほうがずっといいことなんだわ、と自分を慰めるのだった。

 エステルの乗ったバスは快適に走っていました。しばらく景色をながめていた彼女は、誰かと話したくてたまらなくなります。隣の席には、肥ったかなり年配の女性が座っていました。エステルはまずドイツ語で話しかけますが、彼女には通じません。そこで英語に変えてみても、反応は同じ。肥った女性はうろたえて「イエス」と答えるばかり。

 フランスは四年もドイツに占領されていたんじゃないの。それなのに、せっかくの機会をもらいながら、ドイツ語を学ばなかったなんて…。エステルには、フランス人がわざと怠けてばかりいて、無駄使いをする民族に思えた。

 そのとき突然、急ブレーキがかかります。バスは激しく揺れ、乗客からは悲鳴があがります。そしてバスは谷にまっさかさまに落ち始めたのです!
 エステルは恐ろしさで気が遠くなりますが、気づくと落下は終わっていました。
 バスは屋根がなくなっているだけで、周りの乗客たちも無事な様子。隣を見ると、肥った女性は、首のうしろにかなりの傷を負っているようです。エステルは話しかけます。「奇跡ですわね」「傷はお痛みになります?」

 「いえ」肥った女性は答えた。「あなたのほうは?」
 「私は大丈夫ですわ。どこも怪我していませんもの」
 「でも、こめかみに穴のようなものが…」


 突然肥った女性と話が通じるようになった理由とは? 谷底に落ちたバスの乗客たちが無事な理由とは?
 言葉が通じたことに喜びを感じるエステルですが、思いもかけない結末が待ち受けています。彼女が本当に幸運だったかは、神のみぞ知ることでしょう。

テーマ:海外小説・翻訳本 - ジャンル:小説・文学

この記事に対するコメント
ジダン頭突き
準決勝からはヨーロッパのお祭りになってしまってちょっと興味が失せたワールドカップ、決勝でやってくれましたね。私としては、ジダンとマテラッツィが罵りあえたことにまず感心してしまいました。セリエで5年間プレーしたとはいえ、罵りあえるほどイタリア語を習得していたとは、さすがジダン!
ラテン語を共通の祖にしているにしても、ヨーロッパの各国間のコミュニケーション言語は興味深いものがあります。否応なく数ヶ国語を話せてしまうオランダ人の小国の悲哀。フランス人の”中華思想”も有名ですよね。
ところで、このバス、アラブ人が乗車していたら、谷底に落ちた後では姿を消したのでは?
【2006/07/14 23:37】 URL | BIBI #- [ 編集]


ジダンの頭突きには驚きましたね。いくら挑発されたといっても、暴力に及んだのはスポーツマンとして、どうかと思いますが、向こうの差別状況には、日本人には伺いしれない奥深いものがあるんでしょう。言葉が通じても「気持ち」は通じない、といったところでしょうか。
小国は、生き残るために大国の言葉を学ばざるを得ない、というのも真実ですが、日常的にバイリンガルになるような状況がある、というのは、日本人の我々から見たら、非常にうらやましい話です。『バベル』みたいな作品は、日本では発想しにくいでしょうね。もっともオチはかなりお手軽で、予想がつくものではありますが。
【2006/07/15 06:54】 URL | kazuou #- [ 編集]


ショートショートのような展開に思わず身を乗り出してしまいそうです。
バス転落といえば、東野圭吾「秘密」がチラッと頭に浮かんでしまい「もしや!?」と思いもしますが…。全員死んでましたオチに3000点賭けてみたいと思います。BIBIさんのコメントを拝見してると宗教観?が絡んでくるのかと思ったりもします。
【2006/07/15 11:34】 URL | 加納ソルト #- [ 編集]

よくわかりましたね
作品中で、明確に言及されるわけではないのですが、オチとしてはその通りなんですよね。
言語とか宗教とか、けっこうシリアスなテーマを盛り込めそうな話ですが、ごく短い作品なので、そこらへんは、ほとんど掘り下げられないのが残念。
【2006/07/15 11:46】 URL | kazuou #- [ 編集]


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男性。本好き。短編好き。異色作家好き。怪奇小説好き。
怪奇幻想小説の読書会「怪奇幻想読書倶楽部」主宰。
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