奇想に満ちた長篇幻想小説『香水 ある人殺しの物語』(文春文庫)で知られるドイツの作家パトリック・ズュースキント(ジュースキント)。『香水』とは異なり、彼の中篇には幻想的な要素は薄いです。ただ、奇矯な登場人物が繰り広げる物語は、日常を舞台にしていても、奇妙な味わいが強いですね。 単行本として刊行された中篇『鳩』と『ゾマーさんのこと』の二作品について、見ていきたいと思います。
パトリック・ズュースキント『鳩』(岩淵達治訳 同学社)
数十年来、銀行の警備員として勤める初老の男性ジョナタン・ノエルは、何十年もかけて自分のアパートの部屋を住み心地の良いものにしていました。部屋を完全に自分のものとするために、家主のラッサール夫人にかけあい部屋を購入することにします。費用もすでに大部分払い込んでいました。 ある朝、ドアを開けたジョナタンは、廊下に鳩がおり、床中が糞だらけになっていることに気がつきます。仰天して部屋に逃げ帰った彼は絶望し、もうこの部屋に帰ってこられないとまで思いつめます。何とか仕事に出たジョナタンでしたが、一日を通して動揺から失敗を繰り返してしまいます…。
身寄りもなく数十年以上、一人暮らしを続ける初老男性が、居心地の良い落ち着いた部屋を作り上げるものの、何の変哲もない鳩に驚いてしまったことから、自信をなくし、生きる気力までを失ってしまう…という物語です。 きっかけは「鳩」ではあるものの、「鳩」そのものが主人公の世界を崩壊させる原因というわけではありません。その後の数回に渡る失敗の度に、主人公は自らのちっぽけさを認識し、自己嫌悪に悩まされてしまうのです。
劇的な事件は全く起こらず、起こるのは主人公ジョナタンのちょっとした失敗とそれに伴う自己嫌悪だけ、という地味な作品ながら、主人公のささやかな幸せが戻るのかどうか、読んでいてハラハラドキドキしてしまうという、妙なサスペンス感があります。
舞台は1984年のパリに設定されていますが、主人公が味わう苦難やそれに対する思いには、普遍的なものが感じられます。「こんなことってあるよね」という、人が日常生活で感じるような、ある種、身につまされる部分が魅力でしょうか。
パトリック・ジュースキント『ゾマーさんのこと』(池内紀訳 文藝春秋)
村一番の変わり者ゾマーさんは、人々が知る限りずっと昔から村の周囲を一日中歩き回っていました。ステッキとリュックサックを欠かさず、雨の日も雪の日も歩き続けているのです。人々が話しかけてもろくに返事もしません。少年の「ぼく」は、たびたびゾマーさんを目撃することになりますが…。
「変人」のゾマーさんの様子を背景に、少年の成長の過程が挟まれてゆくという異色作品です。 クラスメイトの少女への淡い恋、ピアノ教師とのユーモラスなやりとりなど、少年の日々が描かれる部分はごく普通なのですが、その一方、主人公が目撃するゾマーさんのパートはどこか暗さに満ちています。 単純な変わり者ではなく、彼自身が非常に苦しんでいるのを目撃してしまった少年は、奇しくもゾマーさんの最期を見届けることにもなるのです。
ゾマーさんの行動の理由は明確には明かされず、最後まではっきりしたことはわかりません。不思議な静寂に満ちた作品で、どこか心に残る作品ですね。
テーマ:海外小説・翻訳本 - ジャンル:小説・文学
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