海中の講義  ジュール・ヴェルヌ『海底二万里』
4087602176海底二万里
ジュール ヴェルヌ Jules Verne 江口 清
集英社 1993-05

by G-Tools

 言わずと知れた名作、ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』(江口清訳 集英社文庫)。これ、抄訳が多いことでも有名な作品ですが、この完訳版を読むと、理由がよくわかります。まずはストーリーの方をどうぞ。
 ヨーロッパやアメリカで海難事故が多発します。事故の現場で人々は、紡錘形で燐光を発する、クジラよりも大きい謎の物体を目撃していました。その物体は生物であるとも、人工物であるとも取り沙汰されていましたが、意見を求められたパリ自然科学博物館のアロナックス教授は、おそらく巨大なイッカクであろうと推理します。
 やがて〈怪物〉退治のために遠征隊が組織されます。遠征船エイブラハム・リンカン号に、助手のコンセイユとともに乗り込んだアロナックス教授は、とうとう〈怪物〉に遭遇します。同乗していた銛打ちの名人ネッド・ランドは、銛を投げますが、それは金属的な音を立てて、はねかえされます。〈怪物〉はエイブラハム・リンカン号に衝突し、人々は海に投げだされてしまいます。
 アロナックス教授、コンセイユ、ネッドの三人は、やがて〈怪物〉の乗務員に助け出されます。〈怪物〉の正体はなんと潜水艦でした!
 その潜水艦〈ノーチラス号〉の船長ネモは、三人の命を助け、客としてもてなす代わりに、彼らを潜水艦に監禁します。秘密を漏らすわけにはいかないのだ、と。
 反感を持ちながらも、その場はおとなしくネモ船長にしたがう一行でしたが、やがて〈ノーチラス号〉の見せてくれる海の驚異に目を奪われます。深海の珍しい動植物や風景にアロナックス教授は夢中になり、囚われの身であることをすっかり忘れていました。
 常に紳士的なネモ船長でしたが、ときに無条件で三人を部屋に閉じ込めます。さらには食事には睡眠薬を入れるという念のいれよう。船長は詳しい話をすることを拒みます。
 ネモ船長の目的とは? 彼が持つ莫大な財産の出所とは? 海の驚異とともに、ネモ船長その人に魅力を感じ始めたアロナックス教授に対し、活動的な漁師であるネッドは、ことあるごとに脱出のチャンスを狙いつづけるのですが…。
 さて、この作品、物語の筋に関係ない、余計な部分がやたらと目につきます。ネモ船長が見せる海中のさまざまな自然の驚異…、それはいいのですが、そういう部分になると、突如として科学的な説明・蘊蓄が始まってしまうのです。そもそもこの生物は…であるとか、この大陸は…である、この海流は…である、などと科学的な説明が延々と続きます。
 評論家の北上次郎はヴェルヌを扱った『科学の冒険』(早川書房『冒険小説論』所収)の中で、ヴェルヌのこの癖を〈講義〉と読んでいます。この〈講義〉が多いために、物語の流れが疎外されてしまっているのです。そういう点、ヴェルヌは当時の最新的な科学の知見を盛り込んだ、情報小説の趣が強いと言えるのかもしれませんが。
 波瀾万丈な冒険小説のイメージが強い本作品ですが、実はストーリー自体もそんなに波瀾万丈ではなかったりします。原住民に襲われたり浮氷に閉じ込められたりと、それなりに小事件は頻発するものの、大きなプロット上のうねりというものは見あたらないのです。全編これ潜水艦の海中探査が続くと思ってもらえればいいでしょう。いつ終わらせてもいいし、延々と続けてもいいようなストーリーではあるのです。それゆえ結末も、とってつけたような感じが拭えません。
 もちろん海中の驚異や、自然の描写もそれなりに印象的です。スエズ運河開通以前に、紅海と地中海を結ぶ海中トンネルがあったとか、世界中の難破船から財宝を取るとか、そのあたりはさすがに胸躍らせる描写に満ちています。
 登場人物のキャラクターもなかなか魅力的。語り手のアロナックス教授は、わりと無色透明な人間として描かれていて、それほど特色は感じられませんが、他の人物はそれぞれに特色が与えられています。出自も経歴も全く不明、ときには冷酷だが、弱者には慈悲深いネモ船長。分類学には長けているが、本物の魚はまったく見分けがつかないコンセイユや、豪放磊落で食い意地のはったネッド・ランドなどのキャラクターは魅力があります。
 とくにネッドが、ことあるごとに動物を食べる描写が愉快です。コンセイユがあげる魚の分類に対し、食べられるか否かでしか答えないネッドの返答などは非常にユーモラス。他にもジュゴンやカンガルーまで焼いて食べてしまう描写には、微笑を禁じ得ません。このネッドのキャラクターが、ネモ船長の少し陰鬱なトーンに支配されがちな物語に、ユーモアを添えているといえるでしょう。
 さまざまな自然描写、科学的な蘊蓄、機械のメカニカルな描写など、それらが好きな読者にはたまらなく魅力的でしょうが、純粋にストーリーを楽しみたい読者には、かなり冗漫なところのある作品だと感じられるかもしれません。

テーマ:海外小説・翻訳本 - ジャンル:小説・文学

この記事に対するコメント
ノーチラス号、ネモ船長
初めて東京ディズニー・シーを訪れてまず感動したのは、ドックに係留されているノーチラス号。イメージどおりの姿で鈍い光を放っておりました。次に感動したのは「海底探検」の順番待ち行列でいやでもじっくり観察してしまう"ネモ船長の部屋”。例によって細部にわたるまで凝ったつくりで飽きません。ここだけはいくら並んでもいいなと。ディズニー・シーのコンセプトの一つがジュール・ベルヌの世界だったのは意外でしたが、ベルヌの作品で英国人は意地悪く描かれている反面、米国人は比較的好意的に扱われていることを思うと納得できるものがあります。
ちなみに5年前にソウルのロッテワールドを訪れたときはハリー・ハウゼンの世界が再現されていて感動したものでした。
テーマに関係のない話ばかりでごめんなさい。
【2006/06/06 00:10】 URL | 迷跡 #- [ 編集]

パリのアメリカ人?
ディズニー・シーのノーチラス号は初めて知りました。ディズニーはアニメでもヴェルヌを使ってましたし。そもそもヴェルヌやネモ船長のイメージ自体が、さまざまなメディア作品に使われているといった方がいいんでしょうか。やはり影響力の強さを感じずにはいられませんね。
フランス人とアメリカ人というのは相性がいいんでしょうかね。「パリのアメリカ人」というのもありますし。アメリカ人芸術家がフランスで先駆的に評価される、というパターンはよくありますよね。ポーなんかその最たるものでしょう。
【2006/06/06 08:54】 URL | kazuou #- [ 編集]


この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
http://kimyo.blog50.fc2.com/tb.php/108-9c361cb1
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

100年前のアジア沈没

「地軸変更計画」(ジュール・ヴェルヌ2005創元SF文庫)読了。☆☆☆+1889年発表のヴェルヌ後期の作品。いろいろな意味で興味深い内容を含む。何よりも天真爛漫な欧米中心主義が際立っている。ある目的から地軸を変更させようとするプロジェクトをめぐる悲喜.... 迷跡日録【2006/06/09 22:19】

プロフィール

kazuou

Author:kazuou
男性。本好き。短編好き。異色作家好き。怪奇小説好き。
怪奇幻想小説の読書会「怪奇幻想読書倶楽部」主宰。
主に翻訳小説を紹介していますが、たまに映像作品をとりあげることもあります。
記事の新旧に関わらず、コメント・トラックバックは歓迎しています。



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する