
カフカやカミュと比較されることもある、イタリアの作家ディーノ・ブッツァーティ。そう言うと、不条理で難解な作風を思い浮かべてしまいますが、事実はその逆。これ以上はないというほどの、読みやすい文章(翻訳を通してではありますが)と、わかりやすさを持っています。 ただ、作品の読みやすさとは裏腹に、その内包するテーマは、一筋縄ではいきません。 強いて言うなら、現代社会における「不安」。これがブッツァーティの主要なテーマといっていいでしょうか。人間が、日常生活で感じる不安感や違和感、そうした要素を、上手く寓意として取り込んでいるのが特徴です。 そして、もう一つ強調したいのは、物語自体の面白さ。ミステリ、SF、ホラーの要素を含むその作品は、ときに限りなく〈異色短編〉に接近します。エンターテインメントとして読んでも、第一級のものなのです。今回はそんなブッツァーティの作品を概観していきたいと思います。
まずは代表作と言うべき長編『タタール人の砂漠』(脇功訳 松籟社)。 士官学校を卒業したばかりの、まだ若いドローゴ中尉は、意気揚々と赴任地に向かいます。それはかって、タタール人の襲撃に備えて作られたという砦でした。しかし現実に、砦を目の当たりにしたドローゴは失望を隠せません。何の刺激もなく、何の楽しみもない、古ぼけた砦。敵の現れる気配などまったくないにもかかわらず、砦を守り続ける人々に呆れた彼は、さっそく転任を願いますが、ふとしたことから数カ月を砦で過ごす事になります。やがて、ドローゴはなぜか町に帰る気を失い、砦に留まりつづけることになります。存在するかどうかさえわからない敵を待ち続けながら…。 無為な時間、退屈な人生、まさに現代の人間像を象徴するかのような寓意小説。読みやすさにもかかわらず、読後に受ける印象は、重厚かつ強烈です。
長編も素晴らしい出来ですが、やはりブッツァーティの本領は短編にあるといっていいでしょう。 『七人の使者』(脇功訳 河出書房新社『七人の使者』収録) 支配している王国の広さを調査するため、国境に向かった王子。しかしいくら行けども国境はまったく見えません。城との間で往復させている使者との間隔はだんだんと長くなってゆきます…。 無限につづくかと思われる旅路。永遠にたどりつけない国境を目指す王子は、人間の生涯の寓意なのかもしれません。
『七階』(脇功訳 河出書房新社『七人の使者』収録) とある病院に入院することになった男。その病院では、症状の重さによって階が分けられていました。一番症状の軽い患者は七階、重くなるにしたがって、下の階に移されていくのです。何かの手違いから、七階にいた男は、どんどんと下の階に移されてゆくのですが…。 読みはじめれば、展開は予想がつくものの、エスカレートする不条理な展開が魅力的。ブッツァーティの代表作ともいうべき傑作短編。
『神を見た犬』(脇功訳 河出書房新社『七人の使者』収録) 信仰心のあまりない人々が住む、とある街に、ひとりの聖者がやってきます。彼は、崩れかけた教会に住み、祈りを捧げるようになりますが、それにともない、教会が夜になると光を発することを知ります。それは神の光ではないか、と住民たちは考えます。やがて、聖者は死んでしまいますが、彼の飼っていた犬が、町中へ現れます。神の光を見た犬だと、住民たちは考えるのですが…。 本当に犬は神を見たのか? 犬の存在を通して、人々の意識の変化を描く、風刺的な作品です。
『なにかが起こった』(脇功訳 河出書房新社『七人の使者』収録) 北に向かう特急列車に乗った男が、窓の外を眺めていると、あたりの住人が大あわてで南に逃げていくのに気づきます。しかし、何が起こっているのか、その原因は何なのか、まったく分かりません。やがて列車は無人の駅のプラットホームにたどり着きますが… 重大な「何か」が起こっているにもかかわらず、それが何なのかが全くわからないという、不条理の極致。謎を謎のまま終わらせてしまうという、超絶的な作品。
『急行列車』(脇功訳 河出書房新社『七人の使者』収録) 急行列車に乗り込んだ主人公。彼は、駅に止まるたびに、列車がしだいに遅れていることを知りますが、目的地には、なかなかたどり着きません。何年もの月日が流れ去りますが、終着駅は全く見えないのです…。 『七人の使者』とも通底するテーマを持つ作品。走り続ける列車、という「永遠」を上手く具現化したイメージが見事です。
『円盤が舞い下りた』(脇功訳 河出書房新社『七人の使者』収録) ある日、教会に円盤が舞い降ります。中から現れたのは、宇宙人! 司祭は彼らを部屋に迎え入れ、神について談義をはじめますが…。 無垢な宇宙人たちと対比して、人間の愚かさを風刺します。ジャンルSF的な色の強い作品。
『待っていたのは』(脇功訳 河出書房新社『待っていたのは』収録) 男女のカップルが、ある街に降り立ち、ホテルに泊まろうとするものの、なぜか、どのホテルからも拒否されてしまいます。さらに、涼をとろうと、公園の噴水のなかに入った女性は、周囲の人々からとがめ立てされ、連れの男性ともども、見せしめの檻に吊るされてしまいます…。 わけも分からず不条理な目にあう男女を描いた不条理短編。筒井康隆を思わせるブラックユーモア作品です。
『忘れられた女の子』(脇功訳 河出書房新社『待っていたのは』収録) 友人とバカンスに出かけた母親は、ふと不安にとらわれます。娘を叔母に預けたと思っていたが、本当にそうだったろうか? もしや酷暑のアパートに閉じ込めてきたまま、出かけてきてしまったのではないだろうか? ふとした記憶違いが、恐るべき不安を引き起こします。そしてその不安は現実になって…。無気味な結末が、余韻を残します。
『バリヴェルナ荘の崩壊』(脇功訳 河出書房新社『待っていたのは』収録) ふとした遊び心から、語り手は、歴史ある建造物の壁をよじ登ります。その際、錆びた鉄の支柱に手をかけ、折ってしまった結果、建物全体が崩壊してしまったのです! 語り手は不安におののくのですが…。 支柱一本を抜いたがために、建物全体が崩れてしまうという、ある意味、ただそれだけの短編。全体を覆う不安げな雰囲気が効果を上げています。 『夕闇の迫るころ』(脇功訳 河出書房新社『待っていたのは』収録) いろいろと汚い手を使って、高い地位を得た男。夕闇の迫るころ、彼は、廃屋の中で、子供だった頃のかつての自分に出会います。自らの地位を誇る男に対し、少年の自分が求めていたものとはいったい何だったのか…? 少年期の理想とはかけ離れてしまった自分の姿。取り戻せない時を悔やむ、男の孤独を描いた異色短編。
『アナゴールの城壁』(脇功訳 河出書房新社『待っていたのは』収録) 人々は、行列をなして、門の前で、門が開くのを待っています。しかし、なかなか門は開きません。噂によれば、何年か前に一度だけ門が開き、ひとりだけそこを通った人間がいるというのです。それも開いた門は、門のなかでも、いちばん小さく、みすぼらしかったもの。しかも、たまたま訪れた男は、全く待たずに中に入ることができたのです…。 カフカの作品を彷佛とさせる、人生の皮肉を描いた寓話です。
『海獣コロンブレ』(大久保憲子訳 河出書房新社『石の幻影』収録) 船乗りたちから恐れられている海獣コロンブレ。子供のときにコロンブレを見てしまった主人公は、水夫になることをあきらめ、陸での生活を選びます。事業で成功した彼が、ふと思いついて海の見える場所にでかければ、そこには必ずコロンブレが、彼を監視するかのように見ているのです。意を決した彼は海に乗り出し、コロンブレと対決しようとしますが…。 コロンブレとは主人公にとって、どんな意味を持つのか? 運命の悪戯を描く、ブッツァーティ屈指の力作。
『クレシェンド』(千種堅訳 図書新聞『階段の悪夢』収録) アンニー・モトレーリ嬢の家を、旧友の公証人ファッシが訪れる…。わずか数行で構成された一場面を、音楽の「クレシェンド」のように、誇張をまじえつつ、どんどん変奏してゆくという、珍しいタイプの作品。 変奏が続くにしたがって、モトレーリ嬢の容色は衰え、ファッシ氏の姿は怪物めいたものになっていきます。何の変哲もない一場面が、最終的にはグロテスクなホラーになってしまうという、すさまじい技巧が凝らされた作品。
『チクタク』(千種堅訳 図書新聞『階段の悪夢』収録) 「わたし」は、知り合いの医者から、奇妙な話を聞きます。ある女性患者は、突然チクタクという時計のような音が聞こえるのに気づきますが、まわりには時計などありません。しかも彼女が移動しても、その音は聞こえるのです。女性は翌日、車に曵かれ、生死の境をさまよいます。他にも「時計」の音を聞いた人間は、何か大きな事故に巻き込まれているのです。そして「わたし」の耳にもやがて、そのチクタクという音が…。 「時計」の音は、いったい何なのか? 都市伝説風の作品ですが、解釈は述べずに、淡々と事例を並べているのが効果を上げています、
『二人噺』(千種堅訳 図書新聞『階段の悪夢』収録) 老医師トーロの趣味は、友人を「二人噺」に誘うこと。それは、一人が話をはじめ、もう一人が口をはさんで物語を発展させる、というものでした。「わたし」は、トーロ医師の設定にしたがって、物語を進めますが、そのうち結末について思い至ります。老医師は、悲劇的な結末に向かって、物語を誘導していたのです…。 「物語あそび」が、だんだんと不穏な空気を帯びはじめ、そしてその影響は現実をも浸食するという、驚くべき作品。序盤からは全く予想のつかない、驚愕の結末が待ち構えています。
『年老いた非合法活動家たち』(千種堅訳 図書新聞『階段の悪夢』収録) 「私」の友人である山下は、優れた画家であり、容姿も魅力的なプレイボーイでした。彼はある日、奇妙なことを言い出します。「僕は死にかけているんだ。」不審の念を抱く「私」に、山下は鼻眼鏡を取り出し、かけてみろと促します。その眼鏡を通して見た彼の姿は、醜い老人でした…。 人間の死を予見するという眼鏡をめぐる怪奇小説。日本が神秘的な国として描かれているのが目を引きます。
『翼の生えた妻』(千種堅訳 図書新聞『階段の悪夢』収録) 二十も年の離れた娘と結婚した伯爵は、ある日、妻の背中にかさぶたのようなものがあるのに気づきます。やがてそこからは小さな羽が生え、とうとう巨大な翼が現れます。世間体を気にした夫は、妻を部屋に閉じ込めますが…。 翼が生えた妻をめぐる物語。ブッツァーティには珍しく、毒の少ない可憐なファンタジーです。
ブッツァーティの作品集は、現在、絶版のものが多いのですが、4月に光文社古典新訳文庫から、短編集『神を見た犬』が出版されるらしいので、気になった方は、お読みになってみてはいかかでしょうか。 テーマ:海外小説・翻訳本 - ジャンル:小説・文学
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