 シャーリイ・ジャクスン『くじ』(深町眞理子訳 ハヤカワ・ミステリ文庫)は、ブラック・ユーモアと<奇妙な味>風味の強い短篇集です。
「酔い痴れて」 パーティーに出席していた「彼」は、酔いをさますためにキッチンを訪れますが、そこでその家の娘アイリーンに出会います。高校の最上級生だというアイリーンは世界の破滅について語り出し、「彼」は困惑することになりますが…。 パーティーで訪れた先の娘と会話することになった男を描く作品なのですが、男はその娘のエキセントリックさに困惑することになります。 世界の破滅を語る娘はどこか生き生きしており、彼女がなぜそれを望んでいるのか想像するのも面白いですね。結末で父親が娘について問われ「最近の子供はみんなそうだよ」と語る部分も意味深です。
「魔性の恋人」 「彼女」は部屋で恋人のジェイミーを待っていました。その日に彼と結婚をすることになっていたのです。しかし約束の時間になってもジェイミーは現れず、心配になった「彼女」は外に出て、ジェイミーの家まで行くことになりますが、彼はもうそこには住んでいないというのです。 ジェイミーの行方を周囲の人間に聞いて回りますが、彼の行方は一向に分かりません…。 結婚を約束した男が当日になっても現れず、その行方を追う女性が描かれる作品です。男が何か不慮の事故などで姿を現せないのかと思いきや、徹底的にその足跡を消しているようで、悪意を持って姿を消したようにも見えます。 ジェイムズ・ハリスというその男は終始直接的には作品内に姿を現さないのですが、それがゆえに、読者の中でその人物像が膨らんでいくようです。「魔性の恋人」というタイトルもその邪悪さを現しているようですね。
「おふくろの味」 デーヴィッド・ターナーは、自分の生活にこだわりのある男で、住んでいるアパートの部屋を自分好みに整えては、快適な生活を心がけていました。同じアパートに住む女性マーシャとは友人で、部屋の鍵を預かるぐらいの関係となっていました。 食事の支度をしてマーシャを出迎えたデーヴィッドは、マーシャが食事や部屋を褒めるのを聞いて満更ではない気分になっていましたが、そこにマーシャの部屋を訪ねてきたという男ハリスが通りかかります。 勝手にデーヴィッドの部屋にハリスを招き入れたマーシャは、その部屋がまるでマーシャ自身のものであるように振る舞い始めますが…。 自分の快適な部屋に知らない男を招き入れて、勝手な行動をする女友達に不快感を感じる男を描いた作品です。 その図々しさもさることながら、自身の部屋や料理など、自分が作り上げた生活が台無しになっていく過程に主人公デーヴィッドが感じる不快感が如実に感じられるようになっています。 マーシャが登場する以前に、彼女の部屋の描写から、かなりいい加減な人物であることが予想できるようにはなっており、その意味で展開に驚きはないのですが、マーシャに対してデーヴィッドがどういう関係性を感じているのかははっきり描写されず、そのあたりを考えるのも興味深いです。
「決闘裁判」 下宿に越してきたばかりのエミリー・ジョンソンは、自分の部屋からハンカチやブローチなど、細かな品物がなくなっているのに気づきます。どうやら誰かが自分の部屋に侵入して窃盗を働いているようなのです。 下宿内で一日中在宅しているのは、高齢のミセス・アレンだけであり、犯人は彼女に間違いないとエミリーは考えていました。 ミセス・アレンの家を訪ね、遠回しに窃盗の事実を告げますが、盗みは続いていました。エミリーはミセス・アレンの留守中に彼女の家に入り込んで、窃盗の証拠を見つけ出そうとしますが…。 病的な窃盗を繰り返す老婦人の犯罪の証拠を掴もうと、老婦人の家に侵入した女性が思いもかけない事態に遭遇する…という物語です。 話をする限り、ミセス・アレンには悪気が感じられず、その意図もはっきりとは分かりません。証拠を掴もうと侵入したエミリーの行動が悲劇を起こしてしまうのか、と思った矢先の妙な展開にもブラック・ユーモアが溢れていますね。 タイトルの「決闘裁判」は、実力行使に出るエミリーの行動を現したものでしょうか。
「ヴィレッジの住人」 かって舞踏家を志してグレニッチ・ヴィレッジに出て来たミス・クレアランスは、十数年を経て燃料会社の社長秘書となり、経済的には快適な生活を送っていました。 売りたいという家具を見るために、ロバーツ家を訪れたミス・クレアランスは、夫婦が留守であり、自由に家具を見ていてほしいというメモを見つけます。 魅力を感じる品物がないことに失望するミス・クレアランスでしたが、たまたま同じ家具を見に訪れた青年ハリスが訪ねてきたところ、家主のミセス・ロバーツのふりをすることになりますが…。 表面上、とある女性が、家具を買いに来た先でその家の住人のふりをする、という話なのですが、そこに家主の夫婦が芸術を生業にしていることに対する主人公の仄かな憧れや嫉妬のような感情が感じられる、という要素もあります。 かって舞踏家を目指していたミス・クレアランスが、家主の夫人がおそらくその仕事をしていることを推測し、その流れからミセス・ロバーツのふりをするのみならず、舞踏家をしているという「嘘」をつくことになる、というのには説得力がありますね。結末の一文「肩がしきりに痛んだ」は印象的です。
「魔女」 母親と幼い妹と共に電車に乗っていた少年ジョニーは、通りかかった男から話をしてあげようかと持ち掛けられます。男は自分の幼いころの小さな妹の話を始めますが…。 幼い少年に通りかかった男がとんでもない話をする、という物語。残酷なその話はどうも揶揄うためにされているようなのですが、少年は少年でそれを面白がっているのです。 男は悪魔的人物なのですが、少年もまた同じような性質の人間なのではないか、と思わせるところもありますね。
「背教者」 夫と双子と一緒に暮らすウォルポール夫人は、ある日かかってきた電話で、自宅で飼っている犬レイディーがハリス家の鶏を殺して回っていると知らされます。殺しの癖のついた犬は処分するしかない、と仄めかされたウォルポール夫人はどうにか犬を助ける方法はないかと思案しますが…。 愛犬が他人の鶏を殺し、犬の処分を迫られた女性を描く物語です。 殺さずに矯正できないかと探るものの、その手段は別の意味で残酷。相談する人々も本気で考えておらず、挙句の果ては子供たちまでその「死」について無邪気に騒ぎまわる…。真剣に犬の命について考えているのは自分だけのようで、その追い詰められていく心理が想像できるようです。
「どうぞお先に、アルフォンズ殿」 息子のジョニーが連れてきた友人ボイド。彼の家の生活が大変だろうと考えたウィルスン夫人はボイドにいろいろと気遣いをしようとしますが…。 息子の友達の生活を心配し気づかいする母親と、その気遣いは要らぬものとして断る少年。夫人の側の勝手な思い込みとそれによる同情が裏切られる…というお話でしょうか。
「チャールズ」 幼稚園にあがった「わたし」の息子ローリーは、たびたび同級生のチャールズの話をしていました。チャールズは性格の悪い子で、事あるごとに悪事を働いているというのです。そのうちに我が家ではチャールズの存在はお馴染みになっていきます。PTAの会合で、ぜひともチャールズの母親と会いたいと考える「わたし」でしたが…。 息子の話から浮かび上がる悪童チャールズ。その存在は家族の中で膨らんでいきますが、実際のチャールズの姿は思わぬものだった…というお話です。ユーモラスでありながら不気味な話とも読めますね。
「麻服の午後」 レノン夫人とその孫ハリエットの家を訪ねたケイター夫人と息子のハワード。ハワードがピアノを弾くのを見て、レノン夫人は孫に自作の詩を朗読してさしあげなさいと言います。詩を馬鹿にするハワードの前で、ハリエットの詩は祖母によって読まれることになりますが…。 互いに自身の息子と孫を自慢しようとする大人と、自慢される子供たちの側が描かれるお話です。 大人たちが素直に子供たちの芸術的な才能を褒めるのとは対照的に、子供たちは単純にそうした価値観に従ってはいません。 ハワードは詩を馬鹿にしており、ハリエットがそれを避けるためにある話をするのですが、それが子どもならではの倒錯した論理に裏打ちされていた…というところに面白さのある作品です。
「ドロシーと祖母と水兵たち」 「わたし」と友人のドットは、出かける際に水兵たちに気を付けるように母と祖母から度々言われていましたが…。 年頃の女の子にとって水兵は危険、そう考えている母や祖母、本人たちもそういいきかされていることから、必要以上に彼らを恐れる姿が描かれます。 実際危なかったのではないか、というシチュエーションもあるのですが、後半に登場する映画のシーンでは、ほとんど被害妄想的になっていて、妙な滑稽さを醸し出しています。
「対話」 夫には内緒で、かかりつけ医とは異なる医師のもとに診察に訪れたアーノルド夫人。彼女によれば、周囲の人間の生き方、考え方がよく分からないというのです…。 やたらと難しい言葉を使い、何かを言ったような気になる…。周囲の人々のそういう態度についていけなくなった女性が描かれる作品です。 しかも頼りにしていた医師すらもそうした風潮に囚われているようで。諷刺的な味わいの強い作品ですね。
「伝統あるりっぱな事務所」 娘のヘレンと共に家に滞在していたコンコード夫人は、ミセス・フリードマンを名乗る女性の訪問を受けます。軍隊に従軍している息子ボブが、コンコード家の息子チャールズと友人同士である関係から、手紙で家族のことも知らせてきており、表敬訪問に訪れたというのです…。 息子たちの手紙をきっかけに知り合った家族同士が交流を深める。そういう話に見えるのですが、その会話の最中にかすかな自尊心が見え隠れする…というあたりに不穏さがありますね。
「人形と腹話術師」 食事だけでなく、上品でない層も贅沢、エンターテイナーのショーもあるというレストランを訪れたウィルキンズ夫人とストロー夫人。やがて醜い小男が現れ、腹話術のショーを始めます。ショーの後、連れの娘につらくあたる腹話術師の男の姿を目撃する二人でしたが…。 腹話術師の男の傲慢な言動を目撃した二人の夫人が不快な気分を味わう、という話です。 初めから二人の夫人は男に不快感を抱いているため、その腹話術の芸自体が本当に大したことがないのかどうかは分かりません。ただ男が下劣な性格であることは確かなようです。 男の本音が本人ではなく、人形の方から発せられる、というのも面白い趣向ですね。
「曖昧の七つの型」 地下にあるハリス氏の書店には、本好きの少年が入り浸っていました。少年は、高くて買えないエンプソンの本「曖昧の七つの型」を何度も見せてもらっていました。 ある日妻を伴って現れた大柄な男は、本を沢山買いたいと言います。仕事で経済的に余裕の出来た男は、ディケンズのようなりっぱな本を買いたいと考え、自分のためにそれらの本を選んでもらいたいというのです。たまたまその場に居合わせた少年は、お勧めの本を男に案内しますが…。 経済的には貧しいながら、勉強好きで親切な少年。その少年の明朗さと親切心に感嘆しながらも、男の取った行動は残酷で、それを見逃すハリス氏の態度も同様なのです。途中まで良い話に見えた物語が最後で逆転するのは、ジャクスンならではの意地の悪さですね。
「アイルランドにきて踊れ」 赤ん坊を抱えた若きアーチャー夫人が、友人のキャシーとコーン夫人と一緒に在宅していたところ、物乞いの老人が現れます。施しをしようとしたところ老人は倒れてしまい、家で介抱することになります。ありあわせの材料を使って食事を振る舞おうとしますが…。 老人に慈善を施す女性たちを描いた物語です。女性たちからは良いと思われた行為が、老人にとっては必ずしもそうでなかった、というところにシニカルさのある作品です。 落ちぶれても気概を失わない老人の態度に関して、作者がそれを良しとしているのか、滑稽と考えているのか、そのあたりを読み取るのはなかなか難しいですね。
「もちろん」 タイラー夫人は、隣家に引っ越してきた親子、ハリス夫人と息子のジェームズ・ジュニアと知り合いになります。タイラー夫人は、良ければ息子を預かり、娘のキャロルたちと一緒に映画に連れていきましょうかと提案しますが、ハリス夫人は夫の考え上、映画には行けないとつっぱねます。 夫のハリスは学者だといいますが、ラジオや新聞をくだらないものと考えているなど、独自の思想を持っているようなのです…。 新しい隣人と親しくしようとするものの、その頑なな態度と異様な考え方に驚かされてしまう、という物語。タイラー夫人の結末の行動には、ハリス夫人に呆れ果てたような様子が見られますね。
「塩の柱」 夫のブラッドと共にしばらくニューヨークに住むことになったマーガレット。友人夫婦が不在の間の二週間、その部屋を使わせてもらおうというのです。知り合いの家での集まりの最中、火事騒ぎが起き、幸い家事は別の家だということが分かったものの、それ以来マーガレットは不安にとり憑かれてしまいます…。 夫婦だけで快適な生活を過ごすはずが、災害に会いそうになったり、殺人事件に巻き込まれそうになったりと、その生活が不安に彩られていくことになる、という物語です。妻の不安な心理が終始描かれていくという、不穏なお話となっています。
「大きな靴の男たち」 もうすぐ赤ん坊の生まれる若いハート夫人は、メイドとしてアンダースン夫人を雇います。いささか喧嘩腰で雑なところもあるアンダースン夫人に少し不満がありながらも、大体においてその働きに満足していました。 アンダースン夫人は自分の夫に対する文句を事あるごとに繰り返していました。その矛先はハート氏に対しても向けられているようなのですが…。 夫から虐げられていた(いる?)アンダースン夫人が、男性全般に対する怒りを振りまきながら、その一方でハート夫人の懐に入り込もうとする…という物語。 「大きな靴の男たち」の乱暴さを非難する一方で、自身の図々しさには気付いていない…というところにもブラックなユーモアがありますね。
「歯」 顔が腫れるほどの歯痛のため、ニューヨークの歯科医の治療を受けようと、一人でバスに乗ることになったクララ。睡眠薬で虚ろになった意識の中、突然現れたジムという不思議な男の言うがままになっていきますが…。 歯の治療のため、夫と離れ一人でニューヨークに向かった女性クララが不思議な体験をすることになるという幻想小説です。睡眠薬で意識が薄れた状態でのバスの旅路、歯科医についてからの治療中に見る幻覚など、ところどころに「ジム」という男が現れて、それに誘われていってしまいます。 やがては自身のアイデンティティーさえ曖昧になり、結末では夫のところには戻らないであろうことが示唆されています。この作品に登場する男は、ほとんど死神というか悪魔というか、そうした存在となっていますね。
「ジミーからの手紙」 ジミーから手紙が来たという話を聞いた「彼女」は、何の内容だったのか尋ねますが、ジミーに腹を立てている「彼」は、ジミーからの手紙を開けずに、そのまま送り返すと息巻いていました…。 ジミーが誰で、「彼」や「彼女」とどんな関係なのか、過去に何があったのか、といった具体的な事情が全く示されず、ジミーから手紙が来たことと、ジミーに腹を立てている「彼」が手紙を開封せず送り返すつもりだということのみが描かれる、謎めいた作品です。 ジミーが「彼」を怒らせているのは確かなのですが、「彼女」は「彼」に対してもその意固地さに呆れているような態度もかいま見えるなど、その抽象的な人間の関係性のみが描かれていくという特異な作品となっていますね。
「くじ」 その村では、昔から「くじ」が伝統的な習わしとして尊重されていました。一年に一度住人が全員集まり、それぞれの家の家長が「くじ」を引く習わしになっていたのです。今年も「くじ」の日に当たり、人々が集まってきていましたが…。 とある村で、伝統的な行事として行われる「くじ」が行われる過程を描いた作品です。その由来も意味も失われた行事が、伝統として尊重される様子が描かれていきます。 「くじ」を引き当ててしまった人間に何が起こるのかが具体的に描かれず、最後の最後でそれが明かされる構成は見事で、結末を読んだ時の衝撃度は半端ではありません。 この短篇が掲載された雑誌には抗議の手紙が殺到したそうですが、それも頷けますね。
この短篇集、原題に「The Adventures of James Harris」とあるように、多くの作品に「ジェームズ・ハリス」なる男が登場します。そのままジェームズ・ハリスとして登場することもあれば、ハリスのみ、あるいはジム、ジェームズ、ジェイミーという名前で登場することもあります。 場合によっては名前は出されないものの、ハリスと思われる男性が登場する短篇もありますね。姿形も毎回異なるのですが、これらのジェームズ・ハリスたちは、そろって悪魔的な人物で、登場人物たちを不幸を呼び寄せたり、不快な目に会わせるのです。 「魔性の恋人」や「歯」のように破滅的な目に会わせることもあれば、「魔女」や「おふくろの味」のように悪戯レベルの不快な体験をさせたりすることもあります。どちらにしても、ある種の悪魔の化身的な存在のようです。 この『くじ』、個々の短篇はドメスティックな話題やシチュエーションを扱った普通小説とも取れるのですが、このジェームズ・ハリスの存在と考え合わせると、伝統的な怪奇小説のバリエーション的作品集ともいえるかもしれませんね。
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