 アルベルト・モラヴィア『薔薇とハナムグリ シュルレアリスム・風刺短篇集』(関口英子訳)は、イタリアの文豪モラヴィアによる、諷刺とブラック・ユーモアに彩られた幻想小説集です。
「部屋に生えた木」 合理的・人工的なものに関心が深く都会的な夫オデナートと、自然に関心が深い妻カリーナの夫婦。ある日、暖炉と戸棚の間から奇妙な木が生えだしているのに気付いたオデナートはそれを切ろうとしますが、妻に止められてしまいます。やがて部屋に大きく張り出した木は部屋を侵食していきますが…。 妻の意見には逆らえない夫が、なし崩し的に木が部屋を占領していくのを眺めることしかできない…というお話です。木の正体は皆目分かりません。夫婦には子どもがいないようなので、子どもの象徴とも取れますね。 自然が文明よりも強いという「寓意」を示したものなのか、夫婦の間の断絶を描いたものなのか、いろいろな解釈ができそうです。結末にはちょっと不穏な雰囲気もありますね。
「怠け者の夢」 物事を常に空想上で処理してしまう男タラモーネ。温厚で物わかりの良い男とされている彼は、実のところとんでもなく怠惰な男でした…。 実際に物事をこなすのではなく、白昼夢で満足してしまうという「怠惰な男」が描かれます。それがゆえに、明らかに性質の悪い部下を評価してしまったり、恋する相手に告白もできなかったりと、その人生の悲哀ややるせなさが描かれて行く部分に面白みがあります。しかも、本人はそのそれほどその生活に不満を覚えているようでないのも興味深いところですね。
「薔薇とハナムグリ」 ハナムグリの母親と娘は薔薇とキャベツが植えられている庭を発見して降り立ちます。母親は薔薇の素晴らしさを説いた後、後で待ち合わせを約束して飛び立ちますが、ハナムグリの娘は薔薇ではなくキャベツに魅了されていました…。 ハナムグリは薔薇の花を食べるために生まれてきた。そう疑わない母親に対して、娘は薔薇には全く興味を覚えず、キャベツに魅力を感じていました。固定観念や伝統に反する「マイノリティ」を描いた寓話といえるでしょうか。 薔薇にせよキャベツにせよ、その食行為には奇妙な官能性がついて回っているところも異色です。その意味では「性的マイノリティ」関するお話とも読めますね。
「パパーロ」 割のいい投資先を探していたマチェッローニは、友人のエウジェニオから話を聞いて「パパーロ」なる品物に投資することにします。大量の「パパーロ」を買い込んで、値が上がるのを待っていたマチェッローニでしたが、「パパーロ」は次々に問題を起こし始めます…。 買い込んだ謎の品物「パパーロ」をめぐる、コメディタッチの不条理小説です。無機物かと思っていた「パパーロ」は実は生物のようで、異臭を放ったり腐ったり、人の肉を食べたり、果ては娘を妊娠させたりと、とんでもない被害をもたらします。ホラー的な感触も強い作品ですね。
「清麗閣」 娘の結婚式会場となった清麗閣を訪れた母親。足をつかまれて運ばれていく人々を見ながらも、それが結婚式の趣向だと思い込んでいました…。 新婦の母の視点で結婚式の披露宴の様子が描かれていくのですが、その様子はとても尋常ではなく…。不条理小説の一種といえるのですが、この披露宴の様子は、戦争による徴兵の寓意なのか、もしくは直接的な「地獄」の寓意とも読めますね。
「夢に生きる島」 その島は、巨大モグラと王女との間にできた怪物クルウーウルルルによって支配されていました。生まれてからずっと眠り続けているクルウーウルルルが見た夢の通りに、島では現実の出来事が起こってしまうのです。島民達はいつ何が起きるか分からずに不安にかられていましたが…。 怪物の夢によって支配される島を描く幻想小説です。島の現実生活が、怪物クルウーウルルルが見た夢の通りになってしまうため、それが悪夢であった場合、とんでもなく不条理な出来事が起こることになります。 怪物クルウーウルルルに対する反乱が起きたところ、それさえもが夢だった、という事が起きるなど、島民たちは自分たちの意志で動いているのか、夢の支配によって動かされているのかすら分からなくなっていく、というところが魅力的ですね。
「ワニ」 上流階級に憧れを抱くクルト夫人は、夫の上司の妻であるロンゴ夫人の家に招かれて喜んでいました。上品な家の特徴を観察して真似ようというのです。ロンゴ夫人は突然生きたワニを背負い出し、クルト夫人はそれが最近の流行なのかと驚くことになります…。 上流階級の夫人がワニを身にまとっており、それを見た女性が自分もそれを真似したいと思うという不条理小説です。ワニを身にまとうというのが異常なことだと認識しながら、それが上流社会の流行なら自分も真似したいと思うクルト夫人は諷刺的に描かれていますね。
「疫病」 ある日発生した疫病は、健康にそれほど害を及ぼさないものの、強烈な悪臭を伴っていました。しかも病が進むと、その悪臭が香しい芳香に感じられてくるというのです。医師達はその疫病について様々な対策を考え出していましたが…。 健康への実害はなく、ただ悪臭だけを出し続ける病を描いた作品です。病が進むとそれが良い匂いになってしまうのですが、病にかかっていない人、進行途中の人にとっては悪臭である、ということから、人々が断絶されてしまうことになります。 病が進んでしまった人は、もう以前の悪臭を感じ取ることができなくなる…というのがポイントでしょうか。思想的に「洗脳」されてしまった、など、いろいろな寓意を読み込むことができそうです。 疫病の流行から時間が大分経った時点からの語りになっており、結果的に変化してしまった国の様子について語られる結末部分にも味わいがあります。
「いまわのきわ」 高名な評論家であるSのいまわのきわに呼ばれた「わたし」は、彼から重大な告白を聞くことになります。かって創作を志したSはそれを断念し評論家に転向したというのですが、その妬みから様々な作家に、その才能とは全く異なる方向に進むよう誘導したというのです。しかし、「わたし」の知る限り、Sが言及した作家たちは、それぞれの分野で名をとどろかせている者ばかりでした…。 嫉妬から、多くの作家の才能をねじ曲げてやったとする評論家の言葉は真実なのか? 彼が被害を与えたとする作家たちは皆才能を発揮しているように見える…というあたり、皮肉なタッチの作品ですね。 才能は最初に現れたのとは違う形で実ることが多いのか、それとも文学界の評価は全くあてにならないのか、語り手によって示される考え方はどれもありそうで、いろいろと考えさせる作品となっています。
「ショーウィンドウのなかの幸せ」 経済的に苦しいため、唯一散歩を趣味とする元公務員ミローネとその妻エルミニアと娘のジョヴァンナ。ショーウィンドウのなかで「幸せ」を売っているのを見つけたジョヴァンナはそれを欲しがりますが、ミローネはそんなものはくだらないと一喝します…。 「幸せ」が店で売っている…という物語です。それが金で買えるものなのか、という事を含めて、露骨に寓意を含んだ物語といえますね。それがアメリカ製、というところにも皮肉があるようです。
「二つの宝」 資産家の老人ヴィットリーノはかってのメイドで若く美しいフォティデと結婚します。妻から、家に保管してある財産を銀行に預けるよう繰り返し言われたヴィットリーノは、銀行を訪れますが、そこで追いかけてきた妻らしき姿を見つけたヴィットリーノは彼女ごと金庫を閉めてしまいます…。 吝嗇で嫉妬深い老人が、美しい妻(これまた欲が深いようです)も資産もどちらも失ってしまう、という物語。「二つの宝」とは妻と資産のことを表したものでしょうか。 銀行の金庫まで妻がつけてきたとか、棺の中に妻の代わりに金が入っているとか、作中で示される事実が本当なのか怪しく、主人公ヴィットリーノの妄想であるようにも読めます。その意味では「信頼できない語り手」ものともいえるでしょうか。
「蛸の言い分」 つり上げられた蛸は、食べられてしまうという自分の末路を聞いて、蛸の世界で考えられていた地上の世界の話を語ります。海の上には《いけす》があり、食べ物を食べ放題の天国のようなものだと考えられていたというのですが…。 蛸の世界での「死後」(とは明言されていませんが…)の世界について、蛸自身によって語られていくという、諷刺的な作品です。「天国」を素直に信じる一派に対して、懐疑的な一派もいるなど、極めて「人間的」な蛸の世界が描かれるところが面白いですね。
「春物ラインナップ」 ファッションの流行に敏感なインデリカート夫人に対し、夫は服など少しあればいいと考える男でした。妻が雑誌で見つけたという最新のファッションはまるで収容所に収監される囚人のようでした…。 流行であれば、どんな奇抜なファッションでも受け入れられてしまう…という皮肉なお話です。さらにそれが囚人のような格好であるというところから、「流行の奴隷」といった意味合いも匂わせているのでしょうか。全体主義的な世界を予感させる結末も不気味です。
「月の〝特派員〟による初の地球からのリポート」 月から来た特派員が地球の社会について調査を進めたところ、その星には「金持ち」と「貧乏人」という二つの人種が存在することが分かります。彼らは互いに全く違った生活を送っているというのですが…。 月の特派員の視点で、貧富の差が極端になった社会を諷刺するという作品です。金持ちたちが貧乏人たちの視点を持ち合わせない一方、貧乏人たちは文化を全く介さないなど、互いの間の断絶が示されます。かなり政治的・露骨な諷刺作品ですね。
「記念碑」 その国では英雄とされるミュラーなる人物の記念碑、彼は国民生産省仕上げ課ボタン係だったというのですが、彼の像がどのような経緯で建てられることになったのか、観光ガイドと作者(モラヴィア)が対談することになります…。 対談形式で、記念碑が建てられた人物の「偉業」について語られるという諷刺作品です。観光ガイドの話からは、この国では全てが徹底して「お国のため」であり、人間の権利よりも国家が優先されるという社会であることが分かります。 人間の骨を使ってボタンを作るなど、グロテスクなまでの全体主義社会なのですが、さらにミュラーが命を落とすことになったのもただの「勘違い」「ミス」であるにも関わらず、それが「美談」にされてしまうという、恐るべきディストピアが描かれています。
この作品集、諷刺的な意図で描かれたらしい作品が多いのですが、国や時代を超えてシュールな幻想小説となっている作品も多いですね。もっぱらファシズム体制下のイタリアで書かれたらしく、そうした時代背景を考えると味わいが増してきます。
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